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日々の流転


2002-02-25 [長年日記]

λ. 夕方まで起きれませんでした。せっかくボーリングに誘ってもらったのにゴメンね。

λ. ゼータ関数とリーマン予想が酒の肴になるなんて、何と羨ましい。

λ. 君主論

読了。チェーザレ・ボルジアかっちょいー。俺も君主になりてー (違

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λ. 『アクロイドを殺したのはだれか』

昨日借りた『アクロイドを殺したのはだれか』に以下のようなくだりがあり苦笑した。ラカンのこの「解決」のどこが論理学的なのだろうか? ラカンが批判されるのも当然である。ラカンやフロイトに傾向した部分を除けばこの本は割と面白かったので、残念だ。

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『アクロイド殺害事件』とその読解の中心に見いだされるのは、なるほど、隠された真実ではなくエピメニデスのパラドックスである。これは正式には「クレタ人のエピメニデスは『すべてのクレタ人は嘘つきだ』と言っている」と表現されるものだが、省略して「わたしは嘘をついている」とだけいわれることもある。周知のように、このクレタ人のパラドックスは非常に長いあいだ論理学上の難問とされ、解決不可能なものとみなされてきた。もし私が自分は嘘つきだと言ったとすると、私の言ったことは否定されて、私は真実を言ったことになる。しかし、真実を言ったのなら、私は嘘つきであるはずであり、そうすると私の言ったことは否定され……と議論はかぎりなく循環するのである。

ラカンが示したように*、このパラドックスは解決できないわけではない。そこでの発話(エノンセ)の主体と発話行為(エノンシアシオン)の主体とを分けて考えればいいのである。「私は嘘をついている」という言葉が発せられるのは、じつは発話と発話行為という二つのレベルにおいてなのであるが、代名詞「私」は二つの主体を凝縮し、一方を他方の背後に押しやってしまう。ところが、この言葉を口にする「私」【発話行為の主体】は「私は嘘をついている」の「私」【発話の主体】とは違うのである。したがって、一方は本当のことを言っているが、もう一方は嘘つきだといいうるのである。

しかし、こうしてこのパラドックスが論理学的には解決されたとしても、…(後略)


* このパラドックスについては、拙著 Le Paradoxe du menteur. Sur Laclos, Paris, Minuit, 1993 (『嘘つきのパラドックス——ラクロ編』、パリ、ミニュイ社、一九九三年) を参照のこと。