2008-09-15 [長年日記]
λ. 観測の扱いと閉じた系・開いた系
昨日の圏論勉強会でもちょっと話した話で、数学的・物理的な根拠は全く無いただの思いつきなんだけど、観測の扱いが複雑なのは、ひょっとして観測者が系の外部として扱われているから、つまり開いた系を考えているからではないのかと思った。 観測者自身も系の一部として含めた閉じた系を考えれば、全部ユニタリ変換だけになったりしないのか?
そう思ったきっかけは、Decoding the Universe の p.208 で以下のように、デコヒーレンスが環境とのエンタグルメントとして説明されていたこと*1。
The process of an object's gradual and increasing entanglement with its environment — the flow of information about an object into its surroundings — is known as decoherence.
あと、これはちょっと違う話だけど、宇宙全体を閉じた系として考えるとして、The principle of deferred measurement が一般に成り立つのなら、すべての観察は宇宙の終わり*2まで先延ばししてしまって、宇宙の終わりまでは全部ユニタリ変換だけで考えたりしてはいけないのだろうか。 もちろん、それは我々の視点での現象を説明しなさそうだけど。
こんにちわ。前回の勉強会は非常に有意義で勉強になりました。<br><br>>観測者自身も系の一部として含めた閉じた系を考えれば、全部ユニタリ変換だけになったりしないのか?<br><br>こういう考察は、量子論ができたころからされています。量子論の本質に迫る疑問だと思います。<br><br>有名な例がシュレディンガーの猫ですね。<br><br>1 放射性元素と猫を箱の中に入れる。<br>2 猫は放射性元素が崩壊すると死ぬようになっている。(猫が観測者)<br><br>3 箱の外部から、猫の生死を観測する人が居る。(箱の外からの観測)<br><br>つまり、観測行為にそれぞれのステージ(猫、人)があります。<br><br>放射性元素(量子系) < 猫 < 人<br><br>人の視点で見れば、猫までは量子系です。<br>しかし、この話の奇妙な所は、猫の生死が人が観測するまでは定まらないことです。半死半生の重ね合わせ状態にある。<br><br>これは、経験事実(箱の中を見ようが見まいが、猫の生死は箱を開けて見る前に決定している。)とあわないように思えます。ミクロ(量子系)な状態からマクロ(古典系)な状態への移行がどのようなシステムであるかについて、今の所、万人が納得する説明がないのが、現状です。<br><br>また、デコヒーレンスによるシュレディンガーの猫の説明もいろいろと問題があり、東大の清水明氏(量子論の基礎)によると、干渉の効果を取り除く(観測:混合状態→純粋状態)ことは不可能だとしています。<br><br>観測の問題は非常に難しいです。観測を圏論ではどのように定式化できるのか、非常に興味があるのですが、ボブ・クック、アブラムスキー達もこの問題については成功していないのではないかと疑っています。<br><br>ただ、情報理論からみたときの量子論の考察は非常に興味深いです。
hirokiさん<br>横レスですが、恐らくさかいさんの言いたいことは少し違っていて、まず<br>>人の視点で見れば、猫までは量子系です。<br>このときに、人(観測者)も量子系に組み込んでしまえないか、ということではないかと。<br>また、さかいさんの問題意識は、人の直観に合う解釈ができるかどうかではなく、観測者も全部量子系で考えることで、平易な計算体系で扱えるようになるんじゃないか、という事だと思います。<br>そうすると、観測後の古典情報を扱う為にややこしいメカニズムを導入せず、ユニタリ変換だけで考えればよい(=ユニタリ変換の圏でのみ扱えばよい)わけで。
>人(観測者)も量子系に組み込んでしまえないか、ということではないかと。 <br><br>酒井さんの問題意識は観測者も量子系に組み込むことは分ります。<br><br>>観測後の古典情報を扱う為にややこしいメカニズムを導入せず、ユニタリ変換だけで考えればよい(=ユニタリ変換の圏でのみ扱えばよい)わけで。<br><br>このアイデアも分ります。シュレディンガーの猫ならば、猫(放射性原子を観測する存在)で話を閉じさせれないかということですよね。<br><br>>宇宙の終わりまでは全部ユニタリ変換だけで考えたりしてはいけないのだろうか。<br><br>エベレットとかは、そういうスタンス(多世界解釈)でいます。<br><br>量子論至上主義で考えるとありそうなのですが、やはり、ミクロとマクロの境界について一考察必要なのではないかと思います。<br><br>「ユニタリ変換だけで考えればよい」は、アイデアとしては面白いと思います。射影演算子はなくなってくれるとありがたいですしね。<br><br>「ユニタリ変換だけで‥」となると射影演算子の変わりに無限大の繰り込み(スケールについて、ステージがある)とかを行う必要がでてきて、問題が摩り替わってしまいます。<br><br>非常に難しい問題で、僕も時間があれば、改めて考えてみたい問題です。<br><br>ただし、量子計算では観測を最後に持っていくので、途中までのプロセスはユニタリー発展だけですみ、観測の問題をある程度避けて議論ができます。そういう意味では、<br><br>>観測後の古典情報を扱う為にややこしいメカニズムを導入せず、ユニタリ変換だけで考えればよい<br><br>はある程度実現可能ではないかと思います。
> 全部ユニタリ変換だけに<br><br>なると考えられていると思います。宇宙全体を閉じた量子系と考えると、巨大なベクトルがユニタリ変換していっている、という理解で正しいはずです。これは現実世界を説明できている、という点以上に根拠は無く、量力4つの原理の範疇の話だと思います。ですが、そう考えたとして話が簡単になるか…っていうと別段ならんというか、どっちかというと無限次元ベクトルとかどうしようもないから、わけわからんものを「観測」としてまとめちゃってる的な理解の方が正しいんじゃないかなぁと思ってますが、あんま知らんです。
返事が遅くなって済みません。<br>コメント有難うございます。この辺りの話は全然わかってないので、大変助かります。<br><br>まず問題意識ですが、観察者まで含めた閉じた系と考えることで、実際の計算はともかくとして、概念的には単純に理解できたら良いなぁ、と思って書いてました。<br>原理的にはユニタリー変換として扱えるけど、それだと無限次元ベクトルを扱ったり無限大の繰り込みを行ったりする必要が出てきて実際の計算は難しいから、個々の計算では観測や射影演算子を使うということであれば、まさに期待していた通りです。<br><br>ミクロとマクロの境界については私は他の点以上に全然分かってないのですが、シュレディンガーの猫に関しては経験事実と比較することにあまり意味があるとは思えないです。<br>というのも、厳密な意味で箱の中を観察しない(箱の内部に関する情報がどんな意味でも1bit(1qubit?)たりとも伝達されていない)という状況は日常ではまず無いと思うし、逆に1bitたりとも箱の中の情報が伝達されていないのであれば、箱をあける前に本当に決定されていたかなんて判断しようがないと思うので。