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日々の流転


2009-06-16 [長年日記]

λ. 数学基礎論を巡るつぶやき

週末にtwitter上で行われていたやりとりが非常に面白く、散逸してしまうのが勿体無かったので、まとめてみた。 しかし、twitter上のやり取りを後から追いかけるのは想像以上に大変だった……

  • salmonsnare (#1 #2 #3 #4 #5 #6): 基礎の公理の成り立たない集合論 (non well-founded set theory) について, これって、AFA集合論のことか。引用「いずれにしても, 数学としては,基礎の公理の成り立たない集合の理論 (つまりその理論ですでに確立している結果や将来確立されるであろう結果の総体)が数学理論として 「美しい」,あるいは,「面白い」(ものになる)かどうかが, この理論の(数学理論としての)存在意義の評価を左右することになるのだろうと思います.」 この辺の議論の流れをつかみたい。昔、こういう資料を見つけて読んでいたことがある。超集合論—circularityの論理の現在—
  • h_kagami (#1 #2): Axiom of Foundation を否定した「集合論」って集合論の本質的に重要な議論が全然できなくなると思います。「超」がついてるのであれなのですが、はたして「集合論」と呼べるのかどうかは疑問に思っています。もちろん AF を否定した「集合論」の研究を否定しているわけではありません。
    • kururu_goedel (#1 #2 #3): 基礎の公理が成り立たないモデルでの集合論は、有効な局面もある(とi-landさんが言っていた)のですが、その研究には基礎の公理が成り立っているモデルからの視点が不可欠になるだろうということです。 選択公理と決定性の公理の話と同様、どちらが正しいというレベルではなくて、どちらが与えられた状況下で有効かで見ていくべきものだと思います。そして、基礎の公理はとても強力かつ害が少ないので普段は仮定するほうが自然。 渕野先生が書いていらした文章も、結局はそういう切り口だったと思います。
    • ytb_at_twt (#1): すみません、基礎の公理の件ですが「基礎の公理はとても強力かつ害が少ないので普段は仮定するほうが自然。」というのは、standardな集合論者の偏見が混じっていませんか。
    • kururu_goedel (#1 #2): 確かに言葉の選び方が良くなかったです。ごめんなさい。偏見はもちろん入っていますし、それは込みで読んでいただきたいところなのですが(たかだかtwitterだし) 私が良くないと考えているのは、「基礎の公理は不自然なので仮定するべきでない」という見方であって、「不可欠」は勇み足ですね。要は、ZFCとZF+ADの関係みたいになればいいなと思っているだけでして。
    • ytb_at_twt (#1 #2): ついでに、「その研究には基礎の公理が成り立っているモデルからの視点が不可欠になるだろうということです。」について、極論すれば「ZFの証明は自然数論の枠組みで形式化できるから集合論には自然数論の視点が不可欠」とか言えるような気もするのですが。 F先生が「数学の基礎」という言葉で何を意図されておられるのか、私には理解できません。
    • kururu_goedel (#1 #2 #3 #4): 私自身は『数学を展開するための基礎としての集合論』みたいな言い方からは微妙に距離をおいているつもりでいます。一般向けの文章でもプロポーザルでも立ち入り過ぎないようにしています。 そういうのを云々できるほど、哲学の知識も数学全体の知識もありません。謙遜でも逃げでもなく事実として。 でも、数学の多くがZFC上で展開できて、かつZFCに特有のテクニックを使って強力な議論を展開できるから、有効な見方のひとつであることは確かだと思うのですが。私にはそれで十分です。 つーか楽しいじゃんよーZFC。ZFC抜きでgeneral topologyできないじゃん。PCF使ってDowker space作ったり、minimal walk使ってL-space作ったり出来ないじゃん。つーか、俺の飯の種なくなるじゃん。
    • ytb_at_twt (#1): ZFC楽しいよねー。便利なツールも揃ってるし、ツール自体いじって楽しいし。ついでに、「基礎の公理はADなみに面白い」ってのにも賛成。それだけだったら、何の文句もありません。楽しい学会をお過ごしください。
  • masahiro_sakai (#1): 外延性の成り立たない集合論を考えることすらあるのだから、それに比べれば、基礎の公理が成り立たない集合論なんてかわいいものだと思うけどなぁ。
    • h_kagami (#1): 道具としてではなく集合論そのものを研究対象とする場合、基礎の公理を否定したものを「集合論」とは呼びにくい気がします。
  • masahiro_sakai (#1 #2): 渕野先生の 基礎の公理の成り立たない集合論 (non well-founded set theory) について には概ね異論はないけど、基礎の公理の成り立たない集合論を持ち出すことが、「大砲で雀を撃つ」ようなものという感覚は私には良くわからない。 基礎の公理の成り立たない集合論を使えば話が簡単になるところで、基礎の公理の成り立つ集合論の内部で作ったモデルを使って間接的に議論するのは、むしろ回りくどくはないのだろうか。
    • ytb_at_twt (#1 #2 #3): 渕野先生は

      1. ZFCは全ての数学の基礎である
      2. 解析学など、他の理論は全てZFCの中でコーディングされ展開される
      3. ZFCで直接は扱えないストリームなどを扱うZFAも、ZFCの中で展開される
      4. ZFAは、あくまでZFCの中で展開されるサブ理論であり、「数学の基礎ではない」
      5. ZFAを「ZFCと同等に重要」というためには、ZFAを「数学の基礎」と見なす必要がある
      6. しかし、そうすると、超限帰納法による既存の集合論の証明技術がoverkillされてしまう
      7. 「大砲(ZFAの基礎理論化)で雀(ストリームetc)を撃つ」のは、益少なく、無駄である。

      という感じだと思うのですが、いかがでしょうか。

      • masahiro_sakai (#1): 「意識のモデル,ないし概念認識のモデルを考察するときに」という前提で、基礎の公理と反基礎の公理のトレードオフを考えてましたが、「ZFAの基礎理論化」が前提なら納得です。
      • ytb_at_twt (#1 #2 #3): 渕野先生の論法の問題点は、彼の議論で重要な役割を果たす「数学の基礎としての集合論」と言う言葉の意味がよく分からないと言うことです。ZFAを研究している人は「数学の基礎」を目指している訳じゃない。 単に数学の論理的分析をするための枠組みならたくさんある。各種集合論、各種型理論、逆数学、etc. 異なる理論間の数学的内容の比較の共通プラットフォームとしては圏論があり、「その意味において圏論こそ数学の基礎だ」とAwodeyが絶叫していた。 渕野先生は「数学の基礎としての集合論」って言葉で何を意図しているのか理解不能だし、ZFAのような「数学の基礎としての集合論」を目指していない理論を、そうとなり得ないという理由で攻撃するのはお門違いではないかと思います。だから私は渕野先生に反対です。
      • masahiro_sakai (#1): 『ZFAのような「数学の基礎としての集合論」を目指していない理論を、そうとなり得ないという理由で攻撃するのはお門違い』というのも同意。これを読んで、渕野先生の文章に対してどこかひっかかっていたのが、すっきりしました。
    • kururu_goedel (#1 #2 #3): そういうのは私も同意するところなんですが、元々ZFCはその中で他の理論をモデル化するのが普通の利用法なわけで、考えているZFAのモデルがZFCの中で構成されているとイメージまたは仮定しても何の害もないような。 私のようなZFCの外にはほとんど出れないような人間でも、簡単な群論の問題を解くのにそれがZFCの中にあるものかなんて考えないわけですから。 あー、ZFCの中でモデル化したZFAのモデルには何らかの制限が加わるとかいうのなら、話は別なのですが。そのあたりよく知らないので。
      • masahiro_sakai (#1): それはその通りだと思います。ただ、モデルを使って考えることは、議論の単純さとかの点で、モデル化される理論を直接使って考えることの、完全なオルタナティヴにはならないのではないかと思って、あのように書きました。
      • h_kagami (#1: 「G を群とする」と言った途端群論のモデルを考えていることになると思いますが、そんなに不便でしょうか。
        • h_kagami (#1 #2): ちょっと真面目に考えたのですが。例えば V ≠ L の場合 L を「外側から」眺める観点は非常に有用です。 例えば AFA を理論として通常の集合論をモデルと考えた場合、その逆の場合、「外側から見る」という観点でどちらが面白いかという判断は有用かも知れません。
        • h_kagami (#1): どっちが理論でどっちがその内部で作れるモデルなのかの主導権争いみたいな感じもしないではない。あ。また余計なことを。
        • ytb_at_twt (#1): 主導権を主張しているのはF先生だということをお忘れ無く。
        • h_kagami (#1 #2 #3): 主導権と書いたのは余計なことでした。ただ集合論を道具としてではなく、その内部を研究されている方が、AF の否定という言明について「そんなばかな」と思われる気持ちはよく分かります。もちろん AFA について「そんなばかな」なんて言ってません。そもそも基礎の公理がないと清楚清純萌え萌え美少女ねたが使いにくくなるではないか。
      • masahiro_sakai (#1): うーん。念頭にあったのは、例えば自然数の乗算の可換性はペアノ算術だけで証明出来るのに、ペアノ算術のモデルを持ち出して議論するといったものです。
      • h_kagami (#1): 了解しました。たしかに範疇的な公理系を考える場合と非範疇的な公理系の場合ちょっと雰囲気が違うかも知れません。さらに集合論系は独特なので。
      • masahiro_sakai (#1): 私は範疇性について全然わかってないのですが、ここでは集合論が範疇的ということでしょうか? (そういえば、ZF2ではquasi-categoricityが成り立つとかなんとか昔聞いたような……)
      • h_kagami (#1 #2 #3 #4 #5 #6): 範疇性は例えば実数論のように公理と基数が与えれたときその基数であるモデルが唯一存在する理論だったと思います。すみませんいまいち自信なしです。 なんというかある種の対象を規定するための公理という感じだと思います。数論とか実数論とか実体があるという感じで。 群論みたいなのは「群」を規定するというよりも議論の仮定というニュアンスが強いかなと。 なので群論の場合理論で考えてもモデルで考えても特に違いはなくて、逆に範疇的な理論とそのモデルというのは扱いに違いがでるのではと。 集合論に関しては難しすぎて良く分からないです。ちょっといいかげんなこと書いたかも知れません。ごめんなさい。 例えば実数の可算モデルと言われると驚きますが、群論のなんとか基数モデルと言っても別に驚かないという感じでしょうか。
  • h_kagami (#1 #2): 色々な批判を受けながらも数学の基礎としての集合論もすいぶん寿命が長いと思います。 数学の基礎という点ではいずれ新しい理論に道をゆずる日が来るかも知れません。そうなったとしても集合論内部の構造研究はまだまだ続くと思います。
  • h_kagami (#1): ZFC が、色々批判もあるかと思いますが、いまのところ伝統的な数学的構造とそれなり相性が良い理由はよく分かりません。
  • patho_logic: (#1 #2 #3): twitter 上の「数学基礎論を巡るつぶやき」残しておけないだろうか。このまま消えてしまうのがもったいない。断片的な発言を引いて「やっぱ基礎論怪しいね」みたいなことになると困る。

その後の話。

  • yoriyuki (#1 #2 #3 #4 #5 #6): http://bit.ly/KIKuL だけど そもそも *The* Foundation とは何か、という問いを立てているみたいだけど、あまり共感しないなあ。数学というのは、「雑多な技法の寄せ集め」だと思う。集合論の公理についていえば、http://dx.doi.org/10.1016/j.apal.2008.09.010 みたいに公理の強さを精密に測定していくというのが生産的だ。ちなみに基礎の公理はあまり強くなくて、外延性公理の方が強いらしい。
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