新品:
¥2,200¥2,200 税込
ポイント: 22pt
(1%)
お届け日 (配送料: ¥480
):
4月14日 - 16日
発送元: 現在発送にお時間を頂戴しております。創業15年の信頼と実績。采文堂書店 販売者: 現在発送にお時間を頂戴しております。創業15年の信頼と実績。采文堂書店
中古品: ¥416

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
恥辱 単行本 – 2000/12/1
購入オプションとあわせ買い
- 本の長さ290ページ
- 言語日本語
- 出版社早川書房
- 発売日2000/12/1
- ISBN-104152083158
- ISBN-13978-4152083159
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
商品の説明
商品説明
本書でブッカー賞史上初となる2度目の受賞を果たしたJ・M・クッツェー。2003年には、文学的功績を認められてノーベル文学賞受賞の名誉にも輝いている。簡潔で鋭い文章を武器にするクッツェーが描くのは、新旧の思想や力が混在する社会に暮らす人々の心だ。カフカ的な不条理な展開を軸に、若さと老い、欲望と道徳のはざまで揺れる人間を冷徹なまでにまっすぐ見すえながら、読後感は決して冷たくはない。
本書でも、主人公は性欲という泥沼の中で哀しいくらいこっけいにもがいてみせる。職も名誉も失いながら、それでも性欲に振り回されてしまう情けなさ。新しい価値観と古い価値観がぶつかり合う混乱の中で暮らす不安と無力感。だが、あまりにみじめな主人公に怒りすら感じながらも、読み手は物語から目を離すことができない。なぜなら、彼の弱さは人間(特に男性)そのものの弱さであり、彼が恥辱にまみれるとき、読み手もまた堕ちていく感覚を味わうからである。
われわれはそうした情けなさから逃れることはできず、彼と同じくもがきながら生きていかねばならない。クッツェーの救いのない小説に不思議な温かみがあるとすれば、人生を不毛だとしながらも、苦闘する人間そのものは否定しない姿勢に共感を覚えるからであろう。(小尾慶一)
出版社からのコメント
J・M・クッツェーは『マイケル・K』につづき、1999年に『恥辱』で史上初の「二度目のブッカー賞受賞」を果たすなど、かねてよりその文学性が高く評価されており、満を持してのノーベル賞受賞と言えるでしょう。
これまでクッツェーは、寓意的な作風や南アの複雑な社会構造のなかで生きる人々の哀しみ、暴力性などを浮き彫りにする表現などで知られてきましたが、本書は「セクハラして転落していく男」という、ひじょうにわかりやすい作品になっています。
まずは1頁目を開いてみてください。思わず「おっ」と声をもらしてしまうような出だしだと思いませんか? つい引き込まれて読みはじめると、身勝手な主人公デヴィッドに「なんと情けない人間なのだろう」と憤慨することでしょう。でも、いやなやつだと思いながらもページを繰らせてしまう不思議な魔力が、この作品にはあります。
日本では刊行以来、読者からの反響も大きく、特に男性からは「身につまされて一気に読んでしまった」とたくさんのハガキが寄せられています。ほかにも「最低の男だと思っていたのに、読み進むうちに気がついたらほだされていた」と、よろめいてしまった女性読者も続出しています。主人公デヴィッドの危険な魅力をご堪能ください。
〈J・M・クッツェー〉
1940年、南アフリカのケープタウン生まれ。コンピュータ・プログラムや言語学を南アフリカとアメリカで学ぶ。1974年、『ダスクランド』で長篇デビュー。In the Heart of the Country(1977)とWaiting for the Barbarians(1980)で、南アフリカで最も権威あるCNA賞を受賞。1983年に発表した『マイケル・K』で、英国のブッカー賞、フランスのフェミナ賞を受賞するなど世界中で高く評価される。本書『恥辱』で、前人未踏の二度目のブッカー賞を受賞した。現在は、オーストラリア在住。
〈賞について〉
◆ノーベル賞
スウェーデンの化学技術者アルフレッド・B・ノーベルの遺贈により毎年、優れた業績に対して与えられる賞。文学の他に、物理学、化学、生理医学、平和、経済学の部門がある。最初の授賞は、1901年。
◆ブッカー賞
その年に出版された最も優れた長篇小説に与えられる、イギリスで最高の権威ある文学賞。イギリスの多国籍企業ブッカー・マコンネル社が1969年に設立。
〈あらすじ〉
52歳のケープ・タウン大学教授デイヴィッド・ルーリーは、離婚以来、欲望に関してはうまく処理してきたつもりだった。だが、ひとりの教え子と関係をもった時から事態はすっかり変わった。胸高鳴る日々も束の間、その学生から告発されて辞任に追い込まれてしまったのだ。
仕事も友人も失ったデヴィッドは、娘がきりもりする片田舎の農場へ転がり込む。誰からも見捨てられた彼を受け入れてくれる娘の温かさ、自立した生き方に触れることで恥辱を忘れ、粉砕されたプライドを繕おうとする。
だが、ようやく取り戻したかに見えた平穏な日々を突き崩すようなある事件が……。
転落し、自分の人生を見つめ直すことになった男の審判の日々を描く畢生の問題作。
本書に寄せられた賛辞〉
※海外の書評より
■本書は、この世になくてはならぬ、極上の美しき小説だ。
・・《パブリッシャーズ・ウィークリイ》
■『恥辱』は、とにかく必読の書だ。恥辱にまみれた時代に生きる者への哀悼をこめた魂の記録である。・・《ニューヨーカー》
■本書でクッツェーは、現代作家のなかでも最高の地位を確立した。
・・《スペクテイター》
■硬質な美しさと知性をもって語られ、冷酷さと同時に突き抜けた快感を感じさせる。クッツェーは、もっともすぐれた現代作家だ。
・・《サンデイ・タイムズ》
■無駄がなく、感性を刺激する沸き立つような文体で、クッツェーは本書をおそろしく、力強い、永遠に残る作品に高めた。
・・《ウォール・ストリート・ジャーナル》
〈著作リスト〉
FICTION
・Duskland(1974) 『ダスクランド』(スリーエーネットワーク)
・In the Heart of the Country(1977)
・Waiting for the Barbarians(1980)
・Life & Times of Michael K.(1983) 『マイケル・K』(筑摩書房)
・Foe(1986) 『敵あるいはフォー』(白水社)
・Age of Iron(1990) 『石の女』(スリーエーネットワーク)
・The Master of St. Petersburg(1994) 『ペテルブルグの文豪』(平凡社)
・Disgrace(1999) 『恥辱』(早川書房)
・Elizabeth Costello(2003)
NONFICION
・White Writing: On the Culture of Letters(1988)
・Doubling the Point: Essays and Interviews(1992)
・Giving Offence: Essays on Censorship(1996)
・Boyhood: Scenes From Provincial Life(1997) 『少年時代』(みすず書房)
・Youth(2003)
内容(「MARC」データベースより)
登録情報
- 出版社 : 早川書房 (2000/12/1)
- 発売日 : 2000/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 290ページ
- ISBN-10 : 4152083158
- ISBN-13 : 978-4152083159
- Amazon 売れ筋ランキング: - 633,416位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
デヴィッドと関係する女性たち。ソニアはムスリムと明かされているので黒人と判る。メラニーはどうか。容姿は「小柄で細身、短く刈った髪は黒……大きな黒い目」とあるのみで、よくわからない。池澤夏樹はある書評の中で「メラニーMelanie」はギリシャ語で「黒」を意味するという。彼女が黒人であれば物語の枠組みはすっきりする。ではベヴ・ショウは?「ずんぐりと小柄な気ぜわしい女で、短く刈り込んだ縮れ髪、黒ぼくろが点々とし、首がやけに短い」、と描かれる彼女も黒人か。
そう仮規定して読み進むと、物語の前半と後半が「逆さま」の構図になっていることが判る。前半は、デヴィッドが黒人学生のメラニーに訴えられる「セクハラ事件」。後半は娘のルーシーが黒人三人組に犯される「レイプ事件」を中心に据えて進む物語である。
深刻な話なのに語りが「軽薄」と言うほど明るいのも本書の第二の特徴だ。「この小説は「恥辱」ではなく「自尊」を書いている」という読書仲間の批評に感心させられるが、そうでもしなければ書き続けられない内容を孕んでいるからだ。黒人が白人を犯すという記述は、南ア文学では初めてで、ほんの10年前までは「アパルトヘイト」政策のもとで黒人を合法的に差別し、その後、多分に外圧によって人種平等を「観念的」に受け入れた多くの白人読者には耐えられないだろう。が、南アの時代の転換をこういう形で示したクッツェーの「革命的思考」は驚嘆に値する・
第三の特徴はデヴィッドとルーシーによって浮き彫りにされる、白人/黒人の対比を通して示される成長=自己変革である。
その一つはデヴィッドの「性」の問題。彼の男性優位的な性嗜好は白人優位主義の残渣と重なる。好む女は決まっている。美人で従順な女性。自分を(男性に)美しく見せようと努める女。ソラヤにしろ、メラニーにしろそういうタイプの女たちだ。二人の白人妻と離婚したのも、フェミニズムの洗礼を受けて主張を露わにする女を嫌ったと、二度目の妻ロザリンドとの会話からも読める。デヴィッドはロマン小説に出てくるような、男にとっての「理想の女性」を追い求めてきたと言えるが、それは彼の男性性が南アという差別制度の中で醸成され肯定されてきたに過ぎなかったのだ。そういう彼が、レイプ事件の混乱のなかで、肉体的魅力のないペヴと結ばれる。ここにはアフリカに伝統的な母系社会と重なる部分があるのだが、デヴィッドにとって、これまで見えなかった女性性というものが、ようやく見え始めたということではないだろうか。世の男が女によって救われるように、「デヴィッド・ラウリーは救われたのだ」。
もう一つは、ルーシーとペトラスの対比。アパルトヘイト政策が廃止されてこの国の白人支配が終わり、黒人が政権を握ったという事実をリアリスティックな象徴として、映し描いたという点である。ルーシーには白人がこの国で生き延びてゆくにはどうすべきかが解っている。ペトラスも逆の意味でこれを理解している。黒人が国の主人となった今、白人を庇護してゆくのはこの方法が一番だと。
白人優位時代の残渣を洗い流せないでいるデヴィッドは、ペトラスとの関係を、はじめは「ペトラスの手伝い、か。気に入った。いいじゃないか。この歴史の皮肉、ところで、労働に対して賃金は払ってくれるのかな」と恥辱がらみのアイロニーを込めて言うのだが、最後には暴力がらみで事実を納得させられる。ペトラスがレイプ問題に関わっているかどうかは、ルーシーの強い拒否で追求されない。ペトラスだって、長年の小作生活から身を起こし、自分の土地を持つまで至ったのだから、とおりいっぺんの黒人ではない。まじめに働き、まじめに「悪だくみ」に精も出したのだろう。「そんなこんなにもかかわらず、彼(デヴィッド)ペトラスといると落ち着く。
ルーシーは、このすべてをわたしの個人的な問題として引き受けると言うが、これはルーシーが南ア白人の「罪の」総体を引き受けると言っているのだと、読める。
物語の終末は、レイプ犯の子供を宿していると知ったデヴィッドが「遅きに失したようだな。わたしはもはや年季をつとめる老いた囚人だ。だが、きみは前に進みなさい。じきに子どもも生まれるんだし」というせりふで終わる。デヴィッドが手がけている、老いたバイロンとテレサのオペラの制作も、犬の安楽死事業も、この文脈で読み解けるだろう。
小説はオープンエンディングで幕を閉じる。この物語の未来が「明るいのか暗いのか」はなお判らない。しかし、ルーシーにしろ、ペトラスにしろ、否、南アの黒人たちと白人たちの未来を手探りする断固とした意志に各種したい。
もちろん、南アの歴史・多様な人種構成・社会構造などなどが複雑に絡んでの、主人公の複雑な心の底・動きを描いていると思われるが、なにせ、あまり心地よい読後感を感じない。
アメリカが舞台でも、同じでいいか、というとそういうわけではなく、南アフリカの世情が反映されている。
転落したあと、勧善懲悪的に罰されるのではなく、その人がどうやって生きていくのか、それが文学作品でありながらリアルであり、面白いと思いました。