臓器に限らず「人体部品」全般の商品化を扱った本。著者は医事法社会学を専攻する学者。「人体部品ビジネス」の現状に関するレポートと、バイオエシックスの分野での論考の両方が扱われている。
ビジネスの現状に関するレポートは、アメリカの人体部品提供会社であるクライオライフ(CryoLife)の訪問記から始まり、フィリピンの刑務所での臓器売買と、インドのいくつかの都市で行われている臓器売買の調査を紹介している。特にこの部分は、現地に足を運んで当事者たちと話をしているだけに生々しい。著者はどちらかというと人体部品の移植に対して肯定的な立場をとっているが、これには売買の現場を実際に見てきたことが大きく影響を与えているようだ。
とはいいながらも、バイオエシックスを扱った部分はきわめて誠実に書かれていて、非常に面白い。臓器移植を倫理的に否定する議論は、最近では池田清彦の『正しく生きるとはどういうことか』にあったが、あれとは比べ物にならないほど誠実である。とはいいながら、たぶんこういう問題では論者はさきに結論を持っており、あとはどうやって理屈づけるかという勝負なのだから、現実に身を寄せている方の粟屋が池田よりも整合性のある議論を展開できるのは当たり前のことなのかもしれない。『正義の喪失』では家庭内に経済が入ってきたことによる男女同権問題が扱われていたが、こちらは人間の身体に経済が入ってきたことによる問題であり、現在の経済の仕組みを肯定する部分が少しでもあれば、伝統的家庭の崩壊/人体部品ビジネスを完全に否定するのは難しい。
なお本書では、『ソイレントグリーン』的なSF的世界にまで言及してカニバリズム論を行っており、人間の身体の食物としての未来的な再利用(ネオ・カニバリズムと呼んでいる)を人体部品移植の延長線に見ている。まあそういうふうにラディカルである。
グレッグ・イーガンのSF小説『順列都市』には、「スキャン」されてコンピュータ・ソフトウェアとして存在している人格(「コピー」)という概念が登場するが、このコピーの場合には、コンピューティング資源という有料の資源が、人格の存在そのものの基盤となっている。つまり金を払ってコンピュータの使用料金を払わないと、ソフトウェアとしての人格は存在できないのだ(ちなみに、果たして本当にそうなのかという哲学的な意識論も視野に入れられている)。
1999/11/19

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人体部品ビジネス: 臓器商品化時代の現実 (講談社選書メチエ 169) 単行本 – 1999/11/1
粟屋 剛
(著)
すでに事態はここまできている!
このレポートを前に、あなたはいったい何を考えるか。
心臓弁が6950ドル、アキレス腱は2500ドル。提供された人体組織を加工して急成長するアメリカ産業。刑務所や病院を舞台にしたフィリピン、インドの腎臓売買。いまや臓器が「商品」となり、脳死体は「医療資源」と化す。テクノロジーと資本主義の行き着く果てを見つめ、倫理を問う。
このレポートを前に、あなたはいったい何を考えるか。
心臓弁が6950ドル、アキレス腱は2500ドル。提供された人体組織を加工して急成長するアメリカ産業。刑務所や病院を舞台にしたフィリピン、インドの腎臓売買。いまや臓器が「商品」となり、脳死体は「医療資源」と化す。テクノロジーと資本主義の行き着く果てを見つめ、倫理を問う。
- 本の長さ260ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1999/11/1
- ISBN-104062581698
- ISBN-13978-4062581691
商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
心臓弁が6950ドル、アキレス腱は2500ドル…。市場経済下においては人間の臓器でさえも、商品となる可能性がある。人体の利用とそこから派生する「人体の商品化」について、その目的や実態をまとめる。
著者について
1950年、山口県生まれ。九州大学理学部および法学部卒業。製薬会社勤務後、西南学院大学大学院博士課程修了。現在、徳山大学経済学部教授。専攻は医事法社会学。
共著に、『法律学フローチャート』『現代法学』(ともに法律文化社)、『操られる生と死』(小学館)、『いのちの未来・生命倫理』(法蔵館)、『生命倫理学講義』(日本評論社)などがある。
共著に、『法律学フローチャート』『現代法学』(ともに法律文化社)、『操られる生と死』(小学館)、『いのちの未来・生命倫理』(法蔵館)、『生命倫理学講義』(日本評論社)などがある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1999/11/1)
- 発売日 : 1999/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 260ページ
- ISBN-10 : 4062581698
- ISBN-13 : 978-4062581691
- Amazon 売れ筋ランキング: - 422,041位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2011年11月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
最近、臓器移植や臓器売買に関する本を適当に見つけては読んでいる。
本書はそういう類の他著に参考文献として記載されていて、著者の粟屋剛氏をネット検索すると医事法と生命倫理を専攻する大学教授であり、ネットに掲載されている文献を読むと臓器売買に関する調査が極めてリアルである。
そこで、既に絶版(たぶん)となっている本書をamazonマーケットプレイスで入手し、読んでみた。
本書は1999年11月に出された12年も前の本であるから、現在の状況とは大きく異なっている部分もあると思うが、内容はすごい。
◆第1章はアメリカの移植用心臓弁加工会社クライオライフ社の取材である。移植用心臓弁とは、死体から心臓弁を採取し加工し、冷凍保存することで長期間保存を可能にした物。当然、心臓弁に異常がある人への移植用に用いられる(本書出版当時の話なので、今はどうだかわからない)。これは角膜移植に近い移植で、臓器移植とは捉えられていない。(本章では角膜移植は臓器売買にあたる可能性を示唆している)
◆第2章はフィリピンでの臓器売買の実態調査。
マニラ市街にあるモンテンルパ刑務所(「バタス」という本の著者が入所していた刑務所である)では、なかば公然と臓器売買が行われていた。死刑囚が腎臓を一個売ると(書類上は善意の贈与)減刑=死刑回避を期待できる。囚人の臓器売買はシステマチックになっており、書類上は善意の贈与でも、囚人には謝礼が支払われる。その売買契約書は警務所内病院がひな形を用意している。
また、臓器売買を推奨する医師へのインタビューも掲載されている。臓器は個人の所有物であるのだから、臓器売買をするかしないかを決めるのは個人の意志である、と言う考え方である。
◆第3章はインドでの臓器売買の実態調査。
デリー、ムンバイ(昔のボンベイ)、コルカタ(昔のカルカッタ)、チェンナイ(昔のマドラス)で調査を行い、
(1)臓器売買ブローカーがすべてを取り仕切るブローカー主導型
(2)病院がドナーと患者を集める病院主導型
(3)患者が新聞広告などの手段でドナーを集める患者主導型
の3タイプに分けられることを突き止める。
臓器を買いに来るのは金持ちのイメージがあるが、例えばアラブ人の場合はアラブの金持ちばかりが来るのではなく、それほど収入の多くないレバノンの一般市民なども多数来ている。
インドでも臓器売買積極的賛成派の医師や弁護士などがおり、そういう人物へのインタビューも掲載されている。
◆第4章以降は、どちらかというと生命倫理の話が中心となり、ルポとしての要素は薄くなっていく。
臓器売買を考える一冊の本としてはまとまっている構成なのかも知れないが、ルポ要素だけで一冊の本の仕上げることが出来るくらい濃密な取材なので、生命倫理に踏み込んでいったのは勿体ない感じがする。
◆本書のルポは今まで読んだ臓器売買に関連する本の中でも、最も価値が高い。著者粟屋剛氏は本書しか書籍を上梓していない。論文はかなりの量を発表しているようだが、できることなら、もっと本を書いて欲しい。
本書はそういう類の他著に参考文献として記載されていて、著者の粟屋剛氏をネット検索すると医事法と生命倫理を専攻する大学教授であり、ネットに掲載されている文献を読むと臓器売買に関する調査が極めてリアルである。
そこで、既に絶版(たぶん)となっている本書をamazonマーケットプレイスで入手し、読んでみた。
本書は1999年11月に出された12年も前の本であるから、現在の状況とは大きく異なっている部分もあると思うが、内容はすごい。
◆第1章はアメリカの移植用心臓弁加工会社クライオライフ社の取材である。移植用心臓弁とは、死体から心臓弁を採取し加工し、冷凍保存することで長期間保存を可能にした物。当然、心臓弁に異常がある人への移植用に用いられる(本書出版当時の話なので、今はどうだかわからない)。これは角膜移植に近い移植で、臓器移植とは捉えられていない。(本章では角膜移植は臓器売買にあたる可能性を示唆している)
◆第2章はフィリピンでの臓器売買の実態調査。
マニラ市街にあるモンテンルパ刑務所(「バタス」という本の著者が入所していた刑務所である)では、なかば公然と臓器売買が行われていた。死刑囚が腎臓を一個売ると(書類上は善意の贈与)減刑=死刑回避を期待できる。囚人の臓器売買はシステマチックになっており、書類上は善意の贈与でも、囚人には謝礼が支払われる。その売買契約書は警務所内病院がひな形を用意している。
また、臓器売買を推奨する医師へのインタビューも掲載されている。臓器は個人の所有物であるのだから、臓器売買をするかしないかを決めるのは個人の意志である、と言う考え方である。
◆第3章はインドでの臓器売買の実態調査。
デリー、ムンバイ(昔のボンベイ)、コルカタ(昔のカルカッタ)、チェンナイ(昔のマドラス)で調査を行い、
(1)臓器売買ブローカーがすべてを取り仕切るブローカー主導型
(2)病院がドナーと患者を集める病院主導型
(3)患者が新聞広告などの手段でドナーを集める患者主導型
の3タイプに分けられることを突き止める。
臓器を買いに来るのは金持ちのイメージがあるが、例えばアラブ人の場合はアラブの金持ちばかりが来るのではなく、それほど収入の多くないレバノンの一般市民なども多数来ている。
インドでも臓器売買積極的賛成派の医師や弁護士などがおり、そういう人物へのインタビューも掲載されている。
◆第4章以降は、どちらかというと生命倫理の話が中心となり、ルポとしての要素は薄くなっていく。
臓器売買を考える一冊の本としてはまとまっている構成なのかも知れないが、ルポ要素だけで一冊の本の仕上げることが出来るくらい濃密な取材なので、生命倫理に踏み込んでいったのは勿体ない感じがする。
◆本書のルポは今まで読んだ臓器売買に関連する本の中でも、最も価値が高い。著者粟屋剛氏は本書しか書籍を上梓していない。論文はかなりの量を発表しているようだが、できることなら、もっと本を書いて欲しい。
2018年6月18日に日本でレビュー済み
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世界各国で、人体のパーツが売買されている。心臓弁が売買されるのが認められ、心臓の売買が認められないのはなぜか。複数の理由が論じれれてきたが、いずれも合理性に欠ける。最終的には、「不快原理」に行き着く。しかし、快・不快は、個人差が大きく、法的規制になじまない。薬価のような公定価格での売買が認めれるべきである。それによって、年間数百人の移植を受けられず死亡している患者が助かる。
不動産から金融商品、さらに情報産業へ進んだ先進国の経済対象は、今や人体部品・組織に到達し、今後数十年間、おそらくiPS細胞または人工臓器・組織が広く普及するまでの間、この生命医療分野が全盛となるであろう。我が国は、この分野でも遅れを取っている。世界の現状を本書で認識すべきである。特に厚労省のキャリア官僚に読んでもらいたい。
不動産から金融商品、さらに情報産業へ進んだ先進国の経済対象は、今や人体部品・組織に到達し、今後数十年間、おそらくiPS細胞または人工臓器・組織が広く普及するまでの間、この生命医療分野が全盛となるであろう。我が国は、この分野でも遅れを取っている。世界の現状を本書で認識すべきである。特に厚労省のキャリア官僚に読んでもらいたい。
2010年8月20日に日本でレビュー済み
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臓器売買の問題について考えるにあたって倫理は非常に重要であるが、本書ではこの倫理というものをはずして考えたらどう見えるか、という視点で実態が淡々と描かれていく。第五章では、合理的に考えれば「なぜ人体を利用するのだろうか。論理的には、たまたま利用可能であり、しかも有用であった(ある)から利用した(する)ということにすぎない」(171)ということになるが、「少なくとも、経済学が環境コストをゼロと計算し、その結果、環境破壊が起きたように、医学や生命科学が「道徳コスト」をゼロと計算し、その結果、「道徳」破壊が起きつつあるということを自覚しなければならないだろう」(183)とも述べる。本書の極めつけは補論のカニバリズムである。人間が人間の血を飲み内臓を食べることと、輸血や臓器移植を受けることとの間には本質的な違いはない。著者は合理的な思考を突き詰めるという非常に丁寧な方法を用いることによって、結局は、臓器移植や脳死身体の各種利用に対して警鐘をならしているのだと思う。
2004年9月17日に日本でレビュー済み
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臓器移植の倫理的問題をめぐっては、法学者、哲学者、医学者、生物学者、患者団体、ドナーたちが、それぞれの立場、識見から、意見を表明している。それらは確かに傾聴に値するが、ただひとつ抜けていた視点がある。それは、臓器売買の当事者たちの視点である☆筆者は臓器売買のメッカであるフィリピンとインドで、ドナー、レシピエント、コーディネイター、ドクターから聞き取り調査を行い、ありのままの現実を提示している☆日本とまったく社会構造の異なる国で、日本と同じ倫理観を適用することは不適当であり、臓器売買は、強いて言えばインドやフィリピンの社会構造に原因があるのだと筆者は言う☆臓器移植は論理的には人肉食である。人肉食は有史以前から世界中で行われてきたが、近代文明の到来とともに姿を消した。しかし、それは形を変えて臓器移植(血液製剤や培養組織利用を含む)という形で復活しつつある☆人間の尊厳とは人体の尊厳とイコールなのか、人体とはモノなのか、考えるべき点は多い。著者が性急に結論を出していない点が好感が持てるが、工業における「環境コスト」に相当する、移植医療の「道徳コスト」とは具体的に何なのかを解説してもらいたかった。