「近代思想」レポート (2001年7月19日)

総合政策学部一年
酒井政裕

このファイルは、実際に提出したものを若干修正してあります。


まず、講義内容についてどのように理解したかだが、これを書くのは難しい。考えさせられる事ばかりで、果して何か体系的に理解できたか…と思うのだ。

近代以前についても理解していなければ、近代の特質を浮かび上がらせる事は出来ないだろう。近代以前と比較して、近代の特徴は、良くも悪くも、人間の自由/自律性あるいは理性というものが前面に出てきて主体性を獲得したことだろう。人が、理性によって中世のアニミズム的な世界観を脱却し、神無き機械的な世界観を確立した事を近代の始まりとみなすことは妥当に思える。しかし、近代思想と言う名の単一の思想が存在するわけではない。近代という時代に対して、多くの立場や思想が存在する。Tzvetan Todorov (ツヴェタン・トドロフ) はそれらを大きく「保守主義」「科学主義」「個人主義」「人間主義」に分類している。

保守主義は、自由の存在を近代の現実として認めるが、その結果を憂える立場である。地域共同体などの集団が持つ社会的機能を重視し。「もしこれが崩れて個人が誕生すると、社会構造は弱体化し、全体主義を招き入れる可能性がある。中世の封建制が社会のモデルであり、社会的差異、階層制が秩序にとって大事。」といった主張をしているように見える。しかし、保守主義は、前近代への復帰を目指しはしない。何故なら、「選択」はそれ自体近代的な発想であり、保守主義には矛盾するからである。また、文化相対主義的傾向や反普遍主義によっても特徴付けられる。

科学主義は「自然には法則があり、主観的経験よりも帰納法と演繹法の利用によって理解できる」というような立場と呼べるだろうか。そして、基本的には決定論的な世界ビジョンである。しかし、ショックだったのは科学主義が、全体主義の芽を内包していると言うのはショックだった。個人的な考えを言うなら、「歴史の法則」を仮定したとしても、そこからの必然がすなわち正義であるというのはやはり飛躍としか言えない。善悪の概念は科学の内には無いのだ。

個人主義。『「窓のない」個人』という言葉があまりに印象的だった。主張を要約するなら「個人として人は完結し得る。そしてそれが望ましい」といったところだろうか。功利主義は個人主義の問題のある部分を解決するが、他の部分を解決しない。また、個人主義と比較して、全体的に個人が下位に置かれ、社会の利益に対して個人の権利が損なわれる事を積極的に容認してしまうといった問題があるように感じられる。

人間主義は「フランス革命の理想」という事に尽きるだろう。行動の究極的目的を(神・善・正義でも、快楽・金銭・権力でもなく)人間に置くってのがやはりポイントだと思うのだが、どうも難しい。人間の平等や人権を主張しており、普遍主義。
しかし、「天動説→地動説」と「神中心主義または宇宙中心主義→人間中心主義」を対置して「ルネッサンスの逆説」と呼ぶのはどうも筋違いに感じられる。


これらの近代に対する姿勢を踏まえた上で、個別の問題を考える。

民主主義は人間主義に基づくし、人間主義は自由主義に基づく。

「自由主義 vs 共同体」。自由主義が公正さを善に優先し、法をモラルに優先するというのはいかにも「近代」的である。しかし、共同体主義は、自由主義で語られる「私」とコンテキストの関係を再考する。公正さの概念が文化的伝統を超越し得るかというのはとても興味深いテーマだと思うが、これもいまいち良く考えることが出来なかった。

エコロジーなんかも突き詰めると結構考えさせられる。「生態系を守ることは人間の利益になるから守りましょう。」というのは単純で解りやすいが、問題はそこで終らない。ディープエコロジーの思想である。僕は、畜生を人道的に扱う必要無くて、畜生として畜生道的に扱えば十分だと思うんだが、ディープエコロジーは動物だけでなく鉱物までを権利主体として認めるのである。何と言うことだろう! 山形浩生の言うように「これを本気でやるなら、いずれは人間の自由を完全に奪い、さらに優生学と間引きによる強制的な人口調整を行い、ヒトをハチやアリのような集団生物にする必要が出てくる」が、彼らは本当にそれを望んでいるのだろうか?

「フェミニズムの挑戦」は考えさせられるテーマではあったが、あまり本質的だとは思えない。

「生物学(主義)の挑戦」。遺伝子等によって我々は倫理を含めて先天的に決定されているのだろうか? また、共同体等の環境によって後天的に決定されているのだろうか? そして「我々は如何にあるべきか」という最終回にふさわしいテーマだ。自由の哲学の結論は「自然はjusteでない。しかしそれは、われわれがjusticeを否定する理由にならない。」


「興味を抱いた点について、自由に、ただし論理的首尾一貫性を大切にしながら論じなさい。」とのことだが、 「決定論 vs 自由」はこの授業を受けていくなかで最も考えさせられたテーマであったので、やはり、近代思想の前提となる「自由」について少し書いてみたい。だが、論理的な一貫性に至るまで考え尽くすことが出来なかった。

結論を書けば、授業を聞いて尚「自由の哲学」を素直に信じることは出来なかった。『唯物論には、素朴に信じられている「神話」を暴き、隠された真実を白日のもとに晒すという企て自体、エリート主義的な魅力がある (それゆえ知的ミーハーに好まれやすい……)。』と言うが、現代で科学(特に物理)を少しでも学んだことがあれば、むしろ唯物論こそ素朴な発想だろう。唯物論と決定論は、世界を非常にエレガントに説明出来る。それなのに、意識の世界といった不確かな概念を必然性無く導入してまで「自由の哲学」を構築するのが果して素朴と言えるのか?

一般に、「自由」という言葉は「障害がないこと」を指す。ボールを自由落下させるとき、ボールは物理法則に従って、何の制約も受けずに、「自立的」に落下する。私には、人間もこのボールと同じなんじゃないかという気がしてならない。人間からみたこのボールと、より高次の存在から見た人間は同じではないか? ボールや人間が自由だと思い込んでいるだけで、実は因果律の中に在る。…って発想は十分自然ではないか?

まず、決定論の議論は2つにわけられる。1つは決定論は真か、すなわち我々は因果的作用に従っているか。もう一つは決定論は「我々は自由ではない」を帰結するか、である。

決定論と自由に関する論議のいくらかは、自由の概念の無範疇性に起因するように感じる。それゆえ、自由の概念の特殊性によって意思の自由の問題の議論の多様性も還元できるかもしれない。

そのため、このレポートでは「自由であるということは障害がないことを指すのであって、その行為に原因がないこと、それが因果法則で説明できないことを意味するものではない。」という主張で言及されている自由を「弱い自由」、「現在およびわれわれ自身の状況が厳密に実際の通りのものであり、また、過去の状況が厳密に実際通りのものであるとしても、われわれは、実際通りとは異なる選択をすることがいまできる」というような主張を「強い自由」と呼ぶ事にする。弱い自由は決定論に接触しないが、強い自由は決定論に接触する。


我々は自由と言う言葉をさまざまな意味で使う。例えば、「自由電子」「自由落下」 etc... これらには弱い自由は成り立つが、これらには意志が無いから、行為という意味で自由なわけではない。でも、人間もつまることろ物理学的対象の固まりに過ぎないし、これらと本質的な差は無いはずだ。それにも関わらず、我々はリンゴが落下する現象に対して自由な行為を認めず、友人が去り際に手を振る現象に自由な行為を認める。そして、猫が毛づくろする現象に、ある人は自由な行為を認め、別の人は自由な行為を認めない。これは一体どうしたことだろうか? これに関して、最近読んだ「哲学の謎」(野矢茂樹著)という本で、「行為かそうでないかはの区別は、現象それ自体の区別ではなく、それらに対する我々の側の違いにある。」という考えが述べられており、非常に興味深く感じた。更に引用すると、「我々は作業仮説的に対象に対してアニミスティックな態度を取り、ともに生きようとしてみる。なんとかなれば続行。どうしようもなければ、彼らに対するアニミズムを撤回する」というのだ。これは科学の発達以前に、我々が自然に対して今よりもずっとアニミスティックな態度を取っていたことや、今現在も我々が人間に対してアニミスティックな態度を取っていることををうまく説明するし、我々の直観にうまくマッチする。

そして、このような基準を自由に対しても適用することは可能だろうか? 僕は多分適用できるんじゃないかと考えている。ある対象の現象が非確定的であると仮定し、ある精度で同一な「外的」制約条件に対してどのように対象が反応するかを観察する。例えば、人によって反応が違うだろうし、同じ人であっても時によって同じ反応をするとは限らないかもしれない。そうした事実を事を積み重ねていくことで、系を貫く一般原理を見出せば対象が自由であるという仮定を棄却する。そのような原理を見出すことが出来なければ、やはり系が外部に対して非確定的に(≒ 自由に)振舞うのだという仮定を続ける。 これは系が外部に対してどのように振舞うかという事に対して注目しており、また自由の概念が社会構成的だと主張する。

さらに、自律(autonomy)していれば自由だという立場を考えよう。生物はある1つの系とみなせるし、そのような見方をしたときにコンピュータプログラムや生物の動作は、それが決定されているかとは関係無しに。自律的だといえる。ところで、ある系にとって自律で無いのは他律である。したがって、ある系にとっての自律と他律の和集合が因果律であるというのは極めて自然な発想である。(因果は我々の外にあって我々に干渉するのではなく、我々自身も因果それ自体の一部である。) また、ある系の内部に由来するという意味で、生物の行動は自発的である。僕の今の考えはちょうどこれに近い。僕は、自分の行動はそれが決定されているかどうかとに関わらず、自律的な面があり、また自発的だと信じている。しかし、このように考えた場合の問題は、随意運動と非随意運動を区別できない事である。普通、非随意運動は帰責の対象とならない。責任の問題については後で論じたかったが、うまくまとめることが出来なかった。

それと、非決定論と自由意志の間にも越えがたい大きな隔たりがある。世界の全ての状態が(行為者の価値観とか嗜好とか欲求とか意志とかを含めて)確定されているとして、それでもなお行為者が複数の選択肢を選びうるとすると、行為者はある決定に対して何の動機をも持っていないことになる。言い替えるならば、ランダムに選んでるとしか言えなくて、行為者が自らの選択をコントロールしているとはやはり言えないのだ。非決定論が決定論以上に我々の「主体性」を認めているわけではない。むしろ、ランダムであるが故に、我々の自律性や主体性は疎外されている。

少し余談だが、 懐疑論ではないが「世界は客観的な実体としては確定していない」という考え方も出来る。つまり、世界には無数の可能性が重ね合わさっていて、観察によって、世界のある部分が確定されて行く…という「シュレーディンガーの猫」のようなモデルである。あるいは、可能世界の多世界論の一種として、重ね合わさった可能性から、世界を選択する、あるいは選択しない世界を淘汰するというような発想がある。そういった立場を仮定するならば、 ある状態から別の状態がユニークに決定されるとしても、なお未来は不確定である。(この「世界」は、「強い自由」でいう所の「世界」とは意味が異なるので注意)

それと、最後に書いておきたいのは、最も強い決定論を仮定したとしても、それでも、未来の「台本」が書き上がっているわけでは無いということである。なぜなら、ある因果的状況の結果がユニークに決まっていたとしても、計算によって解くことの出来ない問題が確実に存在するからである。(e.g チューリング機械の「停止問題」)